ふと、思うことがある。

この国の未来を、行く末を。
この国に生を受けた、自分自身を。
今まで生きてきた、年月を。
これから先の、自分の道を。
その道を先に立って歩く、人物のことを。



―――私は、この人について行くと、決めたのだ―――





          武に、思う




市中の喧騒から大きく離れた場所にあるその店は、自分の数少ない気に入りの一つ。
いつもは一人で過ごすその店で、だが今日は珍しく、連れがいた。

「早いものですね、上洛してもう、一年が経ったとは」
「そうだな・・・お前も江戸にいた頃から比べると一回り大きくなったよ、加納」

加納と呼ばれた男は、その言葉に少しはにかんだ笑みを見せた。
今年27になる彼は、いまだ少年のようなあどけなさをその面影に残し、敬愛する三木三郎と行動を共にすることが多い。
その三木は今宵、酒と妓を求めて祇園へと足を伸ばし、途中まで随行した加納が偶然市中で会ったのが自分だった。
たまには部下に一杯奢ってやろうなどという、普段の自分ならあり得ない事を思いついたのは、明日からの事を考えて穏やかではいられない心の弱さ故であろうか。

「内海先生がこのような店をご存知とは思いませんでした」

加納は酌を受けながら、緊張をほぐしきれない面持ちで言った。
江戸以来の同志とはいえ、決して口数が多くない、表情を変えない能面のような上司に突然誘われ、断れるはずもなくついてきたものの、この場の空気に耐えかねたのかと思うと、苦笑が漏れる。

「私もたまには、一人になりたい時があってね」

酌をしようとする加納をさり気なく制して、手酌で酒を注ぐ。

「いよいよ明日だな」
「はい・・・出来る事なら私もご一緒させていただきたかったです」
「我々には、京に残ってやるべき事がある」
「土方副長への牽制・・・ですか」

その問いには直接答えず、酒を口に含んだ。
それを見て加納も、杯を口元へ運ぶ。

「内海先生、一つお聞きしてもよろしいですか」
「・・・私に答えられる事であれば」
「我々はこの先・・・どうなるのでしょう」

加納は口元に近づけた杯をそのままに、真っ直ぐな、しかし不安に揺れる両の目を向けてきた。
何も答えずにいると、加納はその杯を、口をつけないまま卓に戻し、少し視線を落とした。

「伊東先生の固い信念は、あれを機にますます強固になったとは思うのですが」

加納の言う「あれ」が何を指し示しているか、言わずとも理解できた。








九ヶ月前、真の武士が、この世を去った。








一年前、深川佐賀町の伊東道場に現れたかつての伊東の寄り弟子、藤堂平助によって、自分達の運命は大きく動き出した。
世情が揺れ動き、まさに激動の真っ只中にあるこの日の本の行く末を、傍観する立場から動かす側に転じたいと願う伊東にとって藤堂の訪問はまさに、闇を照らす一条の光であったかもしれない。
京に上り、新選組に加わって共に幕府の御為に働くべしと説く藤堂の誘いに、伊東大蔵は満面の笑みでこう返した。

「伊東大蔵、上様の御為に、しいては帝の御為にお役に立てるのであれば、身命を賭してお仕え致す所存。藤堂君、よくぞこの伊東を訪ねてきてくれた」

そうして道場を畳み上洛する事を決意した伊東に、師範代を努める自分と他の同志たちが行動を一にするのは、当然の成り行きであった。



同志を引き連れて入隊した伊東に対し、新選組は「参謀」という要職をもって彼を迎えた。

剣技ばかりではなく隊士たちに学問をさせる事で、より志し高く強靭な組織への改革を試みる局長、近藤の思惑のもとに示されたその職は、学の高い伊東にはまさにうってつけであったと言えるだろう。
伊東にとっても、佐幕に傾きすぎる新選組を尊王へ導くという信念を実現するために、学問を教えると同時に隊士の心を掴む絶好の機会であった。
そしてその効果は、目に見える成果となって現れつつある。



そんな折、山南敬助と同室になった伊東の元に、一通の文が届く。
差出人は水戸の天狗党、藤田小四郎。
攘夷断行を叫んだ末に挙兵し、幕府の制止も聞かず転戦を続ける逆賊としてその名を知られていた天狗党の、その長である藤田から文が届いた事を、しばらく伏せておいて欲しいと伊東が山南に懇願した事がすべての始まりであった。
上洛を望む天狗党に対して投降の説得を試みようとする伊東は、その助力を近藤に求める事を考え、その協力を山南に願い出る。
山南は、半ば巻き込まれた形で、その任を引き受けた。


だがその天狗党は加賀で投降し、これですべて丸く収まったと安堵したのも束の間、禁裏守衛総督一橋慶喜によってその面々は斬首の刑に処せられた。
このあまりにも無慈悲な処断によって、もはや幕府の存続にその価値を見出さず、新選組を佐幕から反幕勤皇へと導き、もしそれが叶わぬ時には近藤を斬り殺し、新選組を殲滅するという伊東の決意を強固にさせたその場に、蒼白な顔色の山南も同席していた。

『この国の未来を思えば新選組は、変わるか滅びるかしかありません』

ようやく絞り出した山南の声は震えており、彼が迷いながらも伊東の信念に同調したのだと、その場の誰もが思っていた。





だが、山南の心情を理解するには、伊東も自分も、あまりに彼を知らなさ過ぎた。





山南が脱走したのは、その翌朝のことだった。
追っ手となった沖田に大津で捕らえられ、翌日帰営した山南は一切を語らず、武士として切腹した。



「山南総長の最期が、いまだに頭から消えないのです」
「そうだな、加納―――だが、だからこそ、あのような野蛮な行為を美徳とする今の新選組を、ひいては幕府を、我々が変えていかねばならんのだ。そしてその為に、参謀はあらゆる策を練っておられる」

彼が脱走しようと思いつめるまでに至った経緯に、伊東を始め自分たちは決して無関係ではないという事実が、あるいは他の隊士たちよりも余計に重く山南の死を受け止めさせたのかもしれない。



山南の切腹は、隊内に小さからぬ波紋を引き起こした。

それまでにも、厳格な隊規に則って隊士の処分が下されてきたが、江戸以来の同志であり隊の幹部であった山南でさえもそれから逃れる事は敵わないと知った隊士たちの中に、粛清に対する恐怖が徐々に広がりつつあった。
それはまさに新選組を中から変えていきたいと願う伊東にとって、歓迎すべき事態であり、なればこそ彼はその機会を最大限に生かすべく画策を続けている。

だが水面下で動く伊東のあずかり知らぬうちに、近藤は幕府から信頼を勝ち取る事に成功し、結果、長州訊問使団と共に西下する許可を得て広島に随行する事が決まっていた。
これを、局長交代の好機であると捉えた伊東は、その一行に加わる事を志願し、近藤は貴重な論客として喜んで彼を迎え入れた。



「私は、とても心配です。伊東先生に何かあったら・・・」
「あの人は、大丈夫だ。私やお前の代わりに参謀をお守りする人間がいるのだから」

加納に向かってそう諭しながら、再び酒を注ぐ。
しかし内心、加納の不安は自分にも重なるものである事を打ち消せず、知らず心が翳る。





山南の死から九ヶ月、屯所の移転に始まり、新たな生活様式や洋式調練の導入など、新選組は確実に、大きく変化してきた。
だがそれは、伊東の求める変化とは異なる。
近藤の広島随行に見て取れるように、新選組は以前にも増して幕府へと傾きつつあり、それは伊東にとって決して喜ばしい事ではなかった。
危険を伴うこの広島行に、敢えてその危険を置かしてまで志願した伊東の思惑は手に取るように理解でき、だからこそ自分は命ぜられるままこの地に留まり、与えられた役目を果たさなくてはならない。



武士である以上、伊東も自分も死を常に身近に感じながら生きている。
死を決して恐れている訳ではないのに、だが以前よりも遥かに「死」というものに対して思うところが大きくなったのは何故なのだろう。



『ありがたき幸せに存じまする』



切腹を申し渡された山南は一言こう述べて、近藤に頭を下げた。
彼の最期はあまりに見事で、あまりに不条理だった。

黙して語らず、全てを墓場まで持って行こうと決意して腹を切った山南に対して、それ以外の方法はいくらでもあったではなかろうかと詰め寄りたい気持ちがある一方、武士として誇りを持って死を選んだ彼を羨み、憧憬を覚える自分がいる。
武士でありたいと思いながら、未だ真の武士ではない。
自分は何と愚かな存在なのか。





「何も心配する事はない」

杯を空けるよう加納に促し、それを飲み干したのを見届けてから注いでやる。
加納が今度は、自分に注がせてくれと言うので、杯を差し出した。

「あの人は、変わらない。初めて会った時から聡明な方だ」



伊東と初めて出会ったのは、まだお互い「少年」と称される年齢の頃であった。
内から滲み出る知性を漂わせた美麗な少年を一目見た時、恐らくは本能で、この人物と行く末を共にするであろう事を悟った。
天性とも言うべき、人を惹き付けてやまない伊東の魅力に自分もまた、捕らわれた一人であったのだ。



何を、恐れているのか。
「死」は平等に、人に訪れる。
たとえそれが、長州で伊東に訪れたとしても、今この店を出た瞬間に自分に訪れたとしても、疾うに覚悟が出来ていたはずではなかったか。





注がれた酒を一気に煽ると、加納が少し驚いた。



私は、伊東甲子太郎に、ついて行くと決めたのだ。
迷う事など、何もない。
恐れるものなど、ありはしない。






今宵、少しばかり心が穏やかでないのは、いつも来るこの店に、一人ではない所為だ。
加納と、話をし過ぎた所為だ。
二人で酒など、酌み交わした所為だ。



―――今この瞬間に、山南の姿が脳裏に浮かぶのも、すべては今宵の酒の所為―――



加納の杯を再び満たし、自分も手にして、それを掲げる。

「参謀の無事を願って」



そして進むべき、自分の道に。
















慶応元年11月。

明日、伊東甲子太郎は近藤らと共に長州へ、旅立つ。







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